音楽の話 その8

京都には拾得と磔磔という老舗のライブハウスがあります。
どちらの店も30年以上続けられていて、それにつれて店のご主人も歳を重ねて、なんというかそれなりにくたびれてきて(失礼!)体の具合も年相応になっておられるようです。

拾得のTさんは高血圧とか色々あるみたいで、一時期お酒をひかえられていたそうです。

磔磔のM島さんは何年か前にクモ膜下出血で入院されていました。
現在仕事には復帰されているのですが、リハビリにも通われてて、不自由な事も多いようです。

もともとM島さんは深酒される事が多く、以前入院される何年も前、飲み屋で私のとなりに座られて話しかけられたのですが、だいぶメートルが上がっておられるようで、何を言っておられるのかさっぱりわからなかったので適当に返事をしていると
「お前、わしの言ってる事わかってないやろ!」と突然言われました。「わかるかい!(怒)」

M島さんはバンドもやっておられて、スリッカーズというバンドでは私も一緒にやらせていただいております。
退院されて何年してから、そのスリッカーズで名古屋の得三に行ったときの事です。
リハーサル前にM島さんが得三のステージを上がったり下がったりしているので「何してはるんですか?」と尋ねると
「去年はこれ出来んかったんや。」
客席のフロアとステージの段差は50cmくらいで階段2段とばしくらいの感じなのですが、そこを嬉しそうに何度も上がったり下がったりされておられました。

その日演奏が終わって得三でそのまま打ち上げ。またまたメートルが上がったM島さんは床で寝始めました。
「M島さんホテルに行きましょか。」とM島さん起こしてタクシーに押し込んでホテル到着。
ホテルのフロントで紙を差し出されて「お名前とご住所をお願いします。」と言われたので書いておりました。
ふと隣を見ると、M島さんがその紙に字とは言えないミミズのはったような落書きのようなものを書いておられました。

スリッカーズのベースのK本とギターのY山さんとはカルロスジョンソンのバックバンドでも一緒でした。
そのカルロスジョンソンat磔磔の前日、リハーサルの後。
私とK本とY山さんとで飯でも行こかという事で協議の結果お好み焼きに。
M島さんに「この辺おいしいお好み焼き屋ないですか?」と尋ねたところ「あるよ。すぐ近くに。名前は、ん〜と… 『得得』やったかな。」
3人でそこに行ってみると、ありましたお好み焼き屋が。
名前は『拾拾』
3人ともひっくりかえりました。

つづく

もQさんがいた頃のスリッカーズat磔磔 M島さんが見えません

追記:

「磔磔でBreakDownのdvdの上映会やるから見に来て下さい。」とのお誘いがM島さんからあり、行ってきました。(2010 9/20)
回顧趣味というか昔は良かった的だったらいやだなあ、と思いながら見てきたのですが… 不覚にも感動してしまいました。
ありきたりですが、人生って素晴らしい。M島さんのインタビューがいいです。

以下、その日に配られたM島さんの一文を転載します。


139th nervous breakdown

ブレイクダウンのDVDを作りました。  僕が磔磔に入ったのは1976年、ブレイクダウンは結成して1年目。
まだ拾得にしか出ていなかったので僕は毎月曜日になるとブレイクダウンを見に行ったものです。
 前身のボーカル入道のブルースハウスブルースバンドも僕は好きで、その頃ベースを弾いていた僕は森田恭一の蚊の泣く程の繊細なボリュームのベースが好きでした。
後に1977年にドラムの小川俊英とKOKOMOというバンドを僕は組みました。
その頃の「拾得」は輝いていました。ブルースハウスの他に上田正樹とSOUTH TO SOUTH、WEST ROAD BLUES BAND、優歌団、めんたんぴん等強者どもが目白押しの状態でした。
それから暫くするとSOUTH TO SOUTHは解散、WEST ROADも関西になく、塩次伸二はシーチャンブラザーズ 山岸潤史と石田長生はソーバットレビューを結成するが80年代まで続かず、「関西ブルース」同世代であるのは優歌団、ブレイクダウン。
そういう時代に僕は「磔磔」に入ったのです。
 さて、事の発端は、1年半前に長崎に帰省の折、「御飯」の吉村常弘君から見せてもらった1981年のブレイクダウンの「カヴォ」のビデオでした。
彼とは25年前、長崎の「カヴォ」で知合い、今「御飯」と言う店をやっているブラックミュージックの大好きな人です。
長崎の帰省の時にはよく遊んだし、入院した時はわざわざ京都まで来てくれました。
そのカヴォのビデオは音と画質は悪いが、絶頂期のブレイクダウンのまざまざと彷彿させるものでした。
思い出して仕舞いました。彷彿しました。ひさしぶりに血が沸きました。21年前の映像に。
今でこそビデオと言わずDVDと言わず、普通にごく当り前の物だが、1981年はビデオはまだ高級品でした。

その頃の僕はまだリハビリに通って思いどおりにならぬ言葉、麻痺した右手、右足にこまったなあの感しきり。 ドラムを叩く事は遥か遠いことでした。
2003年の1月「これじゃいかん」と、まず無謀にも先にライブを決定。
最初は元SLICKAERSの松井がゲストで、倉本が演ってるGU★GU Vibratinに、ちょっとだけ予定の飛び入り(?)で入るというものでした。
次は6月名古屋得三で河馬田さんの結婚式の時、これはSLICKAERSの面々で演奏です。
 この頃から気分はすっきりし、叩けるぞの思い新たに。突然カヴォのビデオを思い出しました。
ブレイクダウンのビデオを作ろうと思いました。バンマスの服田さんに9月に了解をとり作業の開始です。
 僕はDVD、ビデオに関しては全く判りません。特に編集技術とかは、さっぱり判りません。
磔磔25周年を取材、撮影、編集したトビー坂東にそれを頼みました。
トビーはブレイクダウンと25周年に会ったばかしで絶頂期のブレイクダウンはおろか、バンドの存在までも25周年に知り合うまで知りませんでした。
彼はイギリスの人で日本語はとても上手ですけど、それは外国人にしては上手いという話し、「ぶっちゃけた」など日本人だと判る言葉は皆目見当付かず、くだけて速いことわざなどは駄目。気の利いた言い回しなんて訳が判らない。
気が立ったことも有りましたが、とにかくこうして失語症のインタビュアーと、ブレイクダウンを知らない外人の撮影隊がコンビとして出来上がったのです。
この撮影は結果として「期待していない失語症のリハビリ」に役に立ちました。
最初の頃の森田恭一さんと最後の忌野清志郎さんでは自分で言うのもなんだけど、言葉がスムーズに成って来たと思います。
また僕がドラムを叩いてるSLICKERSとTerry The Truthも、演奏できるようになりました。
是は取材に快く応じてくれたみなさん。手伝ってくれたみなさんの御陰です。
この場を借りて御礼を申します。最高のリハビリをありがとう。
最高のDVDが出来たと自負しています。早く御覧あれ。

 磔磔 水島博範


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