音楽の話 その3



時は1970年手前。

"人類の進歩と調和"を目前にひかえた大阪府吹田市南部の少年たちのあいだでは、
やっぱり野球がはやっていました。
私の住む金田郵政宿舎では表と裏に分かれて二つの野球チームがありました。
表チームに属する私は裏チーム相手に連戦連敗。いつもくやしい思いをしていました。

ライバルチームの"裏"、われわれ"表"に勝つとキャプテンの親父が出て来てほうびとしてチーム
全員にサイダーを配るのです。
負けた我々はいつもそれを羨ましそうに指をくわえて見ていました。
「くやしいなぁ」「サイダー飲みたいなぁ」


そのころ家の周囲の田んぼはどんどんと埋め立てられていき、野球をするには事欠かない状況でした。
テレビではV9巨人が毎年優勝し 阪急ファンであった私はそこでもくやしい思いをしていました。
特に山田が王にサヨナラホームランを打たれたあの試合は今でも忘れられません。

だいたいテレビでは巨人戦しか放映しない。だからパリーグの選手をテレビで見れるのはオールスター
か日本シリーズしか無いのです。だからこそいつも西宮球場で見ていた選手たちがテレビに出ていた?
選手たちと戦う様は子供心にも感慨深いものがありました。

当時パリーグは暗黒時代。西鉄の"黒い霧"事件、球団は次々と身売りし 東京→ロッテ、東映→日拓
西鉄→クラウンライターと変わってファンはどんどん離れていきました。在関西3球団も 客席は
いつもガラガラでした。"人気のセ 実力のパ"という言葉もありましたが とりあえず"不人気のパ"
だけは誰の目にも明らかでした。
そのガラガラのスタンドで響くのは鐘と太鼓 物売りの声 そしてヤジ。狭い大阪球場では一塁側と
三塁側でヤジの応酬が行われていました。普通そんなん聞こえへんでぇ。

しかしあのころの選手はなんかおっさんぽかったと思いませんか?当時私が子供だったこともあるので
しょうが やっぱり今と比べておっさん臭い選手が多かったように思います。
阪急の米田 加藤 福本、南海の野村、東映の大杉 張本、近鉄の鈴木、ロッテの有藤などなど、、、


さて負け続けた私がどうしたかというと それが"裏"への移籍でした。
"勝ちたい"というよりも"勝って勝利の美酒(サイダー)を味わいたい"という気持から"表"を裏切る
こととなりました。
そして移籍後の初戦、なぜか"表"に大敗した"裏"。
当然サイダーも味わえず苦い思いだけが残りました。

つづく


つづき

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